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世田谷美術館で出会った、士郎正宗の思考宇宙
正直に言おう。
世田谷美術館に向かう前の私は、「原画展だし、懐かしさを噛みしめる感じかな」くらいのテンションだった。
ところがどっこい。入口をくぐった瞬間から、その認識は音を立てて崩れる。

ここは“回顧展”じゃない。
士郎正宗という思考エンジンの内部に放り込まれる空間だった。
展示は静かな美術館らしい佇まいなのに、情報密度がとんでもない。
攻殻機動隊、アップルシード、ドミニオン……名前を見ただけで脳内BGMが鳴り出す人も多いと思うけど、懐かしさに浸る暇がない。
なぜなら、作品が「いま」の視点でこちらを殴ってくるからだ。
AI、ネットワーク、身体性、国家、個人。
「これ、現代社会の話じゃん……」と何度も立ち止まる。
SFの未来予想というより、未来を前借りして考え切っていた人の記録を読んでいる感覚に近い。
気づくと、展示の最初から最後まで、完全に思考を持っていかれていた。
これはもう、展示を見たというより「士郎正宗の脳内を歩いた」と言った方がしっくりくる。
生原稿の物量とSF史年表が語る「過去」ではない作品群
この展示でまず圧倒されるのが、生原稿の物量だ。
量が多い、というレベルじゃない。
「え、これ全部“描いた”の?」と、素で声が出そうになる。
しかも、線が生きている。
細密で、情報過多で、なのに破綻しない。
ペンの運びから思考速度が伝わってきて、「この人、頭の回転どうなってるの……?」と軽く恐怖を覚えるレベル。
さらに追い打ちをかけてくるのが、SF史と作品世界を重ねた年表展示。
これが本当に圧巻。
作品発表の時代背景、技術史、思想の流れが一本の線でつながっていく。

結果どうなるかというと、
「昔のSF作家」ではなく、
「今も参照され続ける思考体系の提示者」として士郎正宗が立ち上がってくる。
展示を見ながら、何度も「この発想、まだ消化しきれてないよね?」と思った。
つまり、作品のほうが、まだ現実を追い越したままなのだ。
過去の展示を見ている感覚は、まったくない。
むしろ、「これ、いま再読しないと置いていかれるやつだ」という焦りすら芽生える。
懐かしさより先に来た、まったく色あせない衝撃
もちろん、懐かしさはある。
昔読んでいた、アニメを見ていた、設定にワクワクしていた。
でも驚いたのは、感情の乱高下だ。
懐かしい、より先に、
「今読んでもヤバい」が来る。
展示を進めるほどに、
「これって当時の流行に乗った作品じゃないんだな」
「時代を切り取ったんじゃなくて、時代を先に使ってたんだな」
という感覚が強くなる。
だから、思い出補正で感動しているわけじゃない。
むしろ、現在進行形で刺されている。
SFって、どうしても「予想が外れたら古くなる」ジャンルだと思われがちだけど、士郎正宗作品は違う。
技術そのものよりも、人間とシステムの関係性を描いているから、状況が変わっても意味が残る。
展示を見終わる頃には、
「これは過去の名作です」ではなく、
「まだ読み解き途中の作品群です」という認識に変わっていた。
今からハマっても遅いどころか、
今だからこそ、ちゃんと受け取れる。
そんな確信が、静かに、でも確実に残る。

展示の外に続く世界──物販コーナーと、これからの展示会
展示を見終えて、深いため息をつきながら進んだ先。
そこに待ち構えているのが、物販コーナーだ。
そしてここで現実に戻される。
フィギュアの出来が、異様にいい。
造形、存在感、仕上がり……全部が「本気」。

欲しい。
めちゃくちゃ欲しい。
……でも、高い(笑)。
というわけで私は、潔く購入を諦め、写真を大量に撮るという選択をした。


同じ行動をしている人、絶対に多いと思う。
それくらい、物欲を正面から殴ってくる。
ただ、この物販コーナーが示しているのは、
「終わった展示」ではなく、
「まだ続いている世界」なんだという事実だ。
実際、2026年にはこの先も展示会が予定されている。
つまり今は、入口に立っても全然遅くないタイミング。
展示を出る頃には、
「また触れたい」
「もう一度読みたい」
「次は追いかける側になってもいいかもしれない」
そんな気持ちが、自然と湧いてくる。
レビューのつもりで行ったのに、
気づけば人に勧めたくなっている。
これが士郎正宗の世界展の一番の恐ろしさであり、魅力だ。
今からでも遅くない。
むしろ、今からハマるのがちょうどいい。

