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ワルプルギスの廻天ラスト考察|まどかとほむらの愛の違い
世界を救うために、大切な人がいなくなる。
その選択がどれほど尊くても、「分かった」と送り出せるでしょうか。
舞台挨拶の中継で、暁美ほむら役の声優・斎藤千和さんが仰っていたのが印象的でした。
「母親になって自己犠牲の気持ちは分かるようになった。でも、もし自分の子どもが同じ選択をした時に受け入れられるかというと…」
どの立場に感情移入するかで、何度でも見方を楽しめる映画です。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』を観て、私の心に残ったのは、まどかとほむら、どちらの愛も天秤にはかけられないという思いでした。
すべてを救おうとするまどか。
そのまどかを、失いたくないほむら。
二人の愛の違いを考えると、膨大な書庫も、ワルプルギスの夜も、ラストに残された記録も、ひとつの問いにつながって見えてきます。
誰かを救うとは、何を引き受け、何を残すことなのでしょうか。
今回は、舞台挨拶の中継付き上映で鑑賞した私が、二人の愛を軸にラストを考察します。
※ここからは『ワルプルギスの廻天』と過去作品のネタバレを含みます。作品の描写に対する個人の解釈であり、公式に示された正解ではありません。最後のセリフと、スタッフロールの最後の足跡については、具体的な内容を伏せています。
まどかの選択に、聖者の歩む道が重なった
まどかの選択を見て、私が思い浮かべたのは、イエス・キリストや仏陀といった、救済を象徴する存在でした。
もちろん、宗教ごとの教えや救済の意味は異なります。ここで語りたいのは、まどかを誰かの再現とする説ではなく、映画を観ながら私の中に浮かんだイメージです。
自分一人の幸せを超えて、世界の苦しみに向き合う。
そのために背負うものの大きさを知っても、救う道を選ぶ。
その姿が、まどかと重なりました。
大きな力よりも、その力で何を願うか
まどかのすごさは、持っている力の大きさだけではないと思います。
TVシリーズでは、ほむらがまどかを救うために時間を繰り返したことが、まどかに膨大な因果が集中する理由として語られました。そして、まどかはその力を、あらゆる時代の魔法少女を魔女になる運命から救うために使おうとします。
力を持つことと、その力で何を願うかは、別の話です。
自分の目の前にいる人だけでなく、会ったことも、名前を聞いたこともない少女たちまで救おうとする。私が聖者の姿を感じたのは、この選択でした。
少なくとも最後の決意を見せるまどかには、その重責から逃れようとするためらいを感じませんでした。自分が引き受けるものとして、まっすぐ選んでいるように見えたのです。
ほむらの「失いたくない」も、同じように愛だと思う
それでも、まどかの選択が尊いからといって、ほむらに納得を求めることはできません。
世界が救われる。
大勢の少女が絶望から解き放たれる。
その意味を理解していても、「だから、あなたがいなくなってもいい」とは思えない。その気持ちは、私にも分かる気がします。
使命を理解することと、別れを受け入れること
私の中では、ほむらの姿に、イエスを慕うマグダラのマリアのイメージも重なりました。
ただし、「失いたくない」というほむらの行動まで、聖書の人物像と同じだと言いたいわけではありません。救済者を慕う一人の人間、という連想です。
世界にとっては救済をもたらす存在でも、ほむらにとって、まどかはまどか。
隣にいてほしい、大切な人なのだと思います。
以前の私は、二人を「まどかはアガペー、ほむらはエゴ」と捉えていました。けれど、その言葉だけでは、どちらかを上に置いてしまいそうです。
すべてを救いたい愛と、たった一人を失いたくない愛。どちらも、その人にとって譲れないもの。
しかも、まどかが大きな力を持つに至った背景には、ほむらの「まどかを救いたい」という願いがあります。
一人に向けられた愛が、すべてを救いうる力につながった。この二人の関係は、単純な善悪や、自己犠牲とわがままの比較では語りきれません。
名塚底根の書庫は、まどかの愛の大きさを見せている
今回、そんなまどかの器を目に見える形で示していると感じたのが、名塚底根の膨大な書庫でした。
名塚底根は、公式の作品紹介でも「すべての魔女の始まりの場所」とされています。作品公式サイト
鑑賞中、私はそこに保管された本を、魔女になった少女たちの記録として受け取りました。
一冊一冊に、一人の少女の絶望がある
あの書庫の一冊一冊が、一人ひとりの少女の絶望の記録だとしたら。
並んでいるのは、単なる大量の情報ではありません。
それぞれに願いがあり、人生があり、そこに至るまでの出来事があったはずです。
遠くから眺めれば、圧倒されるほどの量。
けれど、一冊に目を向ければ、そこにいるのは一人の少女。
まどかの愛は、そのすべてを包含しようとしている。
私は、書庫の描写をそう読みました。「すべての魔法少女を救う」という言葉の途方もなさを、本の量と、一冊ずつの存在感で伝えているように感じたのです。
ワルプルギスの夜は、その器を描く舞台装置
歴代の魔法少女たちの悲劇が積み重なり、一人では到底抱えきれないほどになった。その果てに、それでもすべてを引き受けようとするまどかが立つ。
これが、私に見えた物語の構図です。
「この世の悲劇の総量が一定の限界を超えたから、まどかが出現した」という設定が明示されているわけではありません。あくまで、物語全体を眺めたときの読み方になります。
ワルプルギスの夜は、公式の魔女図鑑で「舞台装置の魔女」と呼ばれています。公式魔女図鑑
その名前を踏まえると、私はこう考えたくなるのです。
積み重なった悲劇と、目の前の圧倒的な災厄。それらを前にして、まどかが何を選ぶのか。その器の大きさを描くための舞台装置こそ、ワルプルギスの夜だったのではないか、と。
書庫が悲劇の広がりを見せ、ワルプルギスの夜との対峙が、まどかの選択を浮かび上がらせる。私には、二つの描写が響き合って見えました。
救われても、存在の記録は消えないのか
もうひとつ、ラストを考えるうえで気になったのが、「名前」と「記録」です。
マルグリートがひとりひとりの名前を呼んだことで、この世にその存在が記され、救済の後にも記録は残る――そんなつながりを感じました。
ここで分けて考えたいのは、魔女になる前に救うことと、少女が生きた経験そのものを消すことです。
苦しみから救われることは、その人がいた証しまでなくなることなのでしょうか。
まどかが包み込もうとした一人ひとりの存在を、名前や記録が、この世界につなぎとめているのかもしれません。そう考えると、あの書庫は絶望の保管場所であると同時に、少女たちが確かに存在した証しにも見えてきます。
キュゥべえのひと言に「こんの悪魔💢」
そして、まどかがいなくなった世界で、名塚底根を「興味深い資料だ」と捉えるキュゥべえ。
……こんの悪魔💢
いや、資料に興味を持っただけなんですけどね(笑)。
それだけで「お前、また何かに利用する気だろう!」と思ってしまう。これまでの行動を知っていると、どうにも信用できません。
私の記憶に残ったあのひと言は、まどかとの対比としても印象的でした。
まどかが一人ひとりの救うべき絶望を見るところに、キュゥべえは興味深い情報を見ている。その温度差が、あまりにもキュゥべえらしいんですよね。
もちろん、この場面だけで続編や新たな企みが確定したとは言えません。ただ、残された記録が、また何かの始まりになるのではないか。そんな不穏な余韻は、しっかり残りました。
…個人的には、「叛逆」の最後のシーンにあったズタボロの姿をもっと見たかったんですけどねぇ。
あとごめん、新キャラに思い入れできる必然性を感じなかったんで、マルグリートのオマケみたいなのとしか思えなかったのが残念。これホントに虚淵玄シナリオ?
最後のセリフと、ふたりの足跡を見届けてほしい
私は今回、舞台挨拶の中継がある上映で鑑賞しました。
その中で、まどかの最後のセリフについて、すべての収録を終えた後に変更し、録り直したというお話がありました。
元のセリフが何だったのかは分かりません。ただ、実際に映画を観た私には、あのひと言が、まどかの決意と本心を語る大切な言葉に聞こえました。
これから観る方には、ぜひ聞き逃さないでほしいです。
ここでは、言葉そのものは書かずにおきますね。
そして、スタッフロールが始まっても、どうかそのまま画面を見ていてください。
そこに描かれるのは、ふたりの足跡。
まどかとほむらが共に歩んできた軌跡を、足跡だけで表しているように感じました。
途中で、ほむらひとりの足跡になる。それでも私には、見えなくなったまどかが、そばにいるように思えたのです。
姿を描かず、説明の言葉も重ねずに、二人の関係を感じさせる。とても印象に残る演出でした。
世界を救うために引き受ける愛と、大切な一人を失いたくない愛。
そのどちらにも心を寄せて観ていたからこそ、足跡だけの表現が胸に残ったのかもしれません。
そして、最後の足跡は、何を示していたのでしょうか。
ぜひ、ご自身の目で劇場で確かめてみてください。
